繙読するも片生りなるところありしを

読んだ本、観た映画をひたすら記録

読むことのすきなひとはどの時代にもいる。そういうひとが、読むことがすきだ、すきだった、と書き残す。はっきりと書き残す。そのほかのことと共に書き残す。だから、読むときはひとり、書くときもひとりだが、それはいつのまにか見知らぬだれかの前にひろげられる出来事となるのだ。世の中の情報や通信の速度が変わっても、ひとがものを読む速さは、そんなに変わるものではない。それは心臓の拍子の同じように、コトコトコト、とつづいていく。

(『孔雀の羽の目がみてる』蜂飼耳/白水社 より)



小学校に入るとき、家から遠いところへと通うことになった。地下鉄で、片道45分。その間うんと暇だったので、本が私の最初のともだちになった。
そのあとも、結局なかなかともだちはできず、高校生になっても大学生になっても、社会人になっても一番のともだちは、やはり本だった。読む本はもう決まっていて、お気に入りの100冊くらいを入れ替わり立ち替わり、何度もなんども読んでいた。
やがて結婚し、夫とよく話すうち、私は人との営みに向いていないことがわかった。私が持っているたいていの知識は本から得たもので、何一つ生きた知識ではなかったし、とても限定的な物の見方をしていたようだった。
そこで新しく自分でいろいろの本を読んでみようと思い、借りた本の中で出会ったのが、蜂飼耳さんだ。この節を読んで私の胸は熱くなった。一応、どこかに記録しておこうと思った。これまでの食わず嫌いが祟ってか、最初の一ページで脱落する本もたくさんある。かろうじて最後まで読めた本の読書録、あと本を読まないときは大抵映画を観ているので、その記録を残してみます。

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