繙読するも片生りなるところありしを

読んだ本、観た映画をひたすら記録

ちゃらんぽらんに苦しむ自意識の浮遊ー町田康『告白』

今から10数年前、私は背中一面に模様が彫られた男と付き合っていた。その模様は紺色一色で、縄文TATOOのような、トライバルっぽい感じ。男は、周りの男たちから一目置かれているようだった。当時完全な喪女思考だった私は、そういう人と付き合えば何がしか人生のドラマが始まるんじゃないかと思っていた。他の女性の影は常にあったし、女誑しである自分を少し誇っているようなところがあったので、彼の人間性にはそんなに期待していなかった。結局、ひどい女遊びとお金のトラブルが元で彼とは別れた。そんな男の部屋で見つけたのが、町田康の本だった。めくってみると、著者の顔写真があってそれがまた男前だったし、バンドをやっているなどと経歴にあった。それで、私は早とちりしたのだ、町田康は軽薄な作家なのだろうと。

今思うと、私の方がよほど軽薄である。ということが、この本を3行でも読めばよくわかる。でも軽薄って悪いことなのだろうか?少なくとも、町田康はその軽薄さとどろっとした重厚さとを絶妙なバランスでミックスし、世に解き放っている。そのバランス感覚の絶妙さは、「あかんではないか。」の自己ツッコミですっ転ぶようなアイロニーから、人の持つ業の逃れようのない苦しさまでを、流れるような河内弁に乗せて、まるで上方落語のように語るところに見ることができる。饒舌な語り口と地の文、口語・文語・流行り言葉・昔の言葉・死後・外来語などの言葉を選択する感覚もすごい。こんな文体は見たことない、力技だが、力があるからこそできるという感じ。

内容は、河内音頭浪曲、河内十人斬りが元になっているらしい。この事件自体については、いろんなサイトで事実を読む限り、私怨がらみのありふれた事件のように思える。が、町田康の描くこのどうしようもない主人公熊太郎、救いがない人生とは正にこのことだが、私にもある、確かにこういう部分がある、と思わされる。決して農民、宮本常一のいうところの"農民"にはなれない人種である、という意識。ぐうたらで、狡賢く、自意識ばかり高じて、何者にもなれない人生の落伍者。本人も、やる気がないわけじゃない。むしろ思い人ができたら、一念発起して結構頑張ろうとはするのだ。するのだが、唯一の妻である縫に対しても酷い所業をしてしまう。もうそれは、感情や理性的な判断の枠を超えて、世界が己か己に相対するものかの2種類しか無くなってしまう者の生き方だ。

明日からは、明日こそは真っ当に生きる、と思う。やってみたこともある。でも、何をやってもうまくいかない、裏目にでる。しかしそれより何よりしんどいのは、本当は人と仲良く暮らしたい、決して人からの愛情が欲しくないわけじゃないのに、繊細、過敏がすぎて人から嫌われる、バカにされる。どう足掻いても人の社会に馴染めないという孤独、この孤独こそが己以外は全て敵である、という思考に繋がっているような気がする。そして、最後の最後、もうおしまいというところまできて、ようやく悟るのだ、他の人が疾うに知っている事実、己こそが敵だったのだと。

これは時代や国は関係ない、全ての罪深い人々に言えることかもしれない。そこで破壊を夢想していても踏みとどまれる程度にはこの世に係累があってよかった、一歩間違えばあちら側、と思い冷や汗を流しながら、最後まで一気に読んだ。もしかしたら本棚に町田康を置いていたあの男にも、そんな部分があったのかもしれないと思うと、なんだか全てが許せそうな気がした。